父として考える
流動性の確保こそがリスクヘッジだという親の世界観は、
根なし草という概念のない子供の世界観と相いれない。
地域コミュニティへの所属、絆コストを払うことが、
子供にとっての財産。
私学への進学、マンションに住むことは、
変化、移動という子供にとっての高いコスト。
機会費用の話。
近代公教育は生まれによるリソースの多寡を中和する共有財。
感染体験、コミュニケーション能力を補正しなければいけない。
共同体や<生活世界>の再帰的構築
こんな話が印象に残った。
現場ではこの再帰的な関わりができない人が多い。
自己決定とパターナリズムへの無知や、
ノイズに対する感性の欠如。
この辺を強く訴えたい。
あとがきの
共同体や<生活世界>の再帰的構築
という言葉によくまとまっていると思う。
教育の現場の言葉で言うと、
「つながり」「体験」「グループワーク」「コミュニケーション能力」
こんな感じか。
でも「大きな物語」の終焉や再帰的近代という言葉は聞かない。
もっと教育学部で教え込んでほしい。
学校に、というか教師に、代替的機能を求めるのは止めてほしい。
コミュニティスクール、エクステンデットスクールとかいろいろありますが、
とにかくメンターとか入れまくって、
スクールという言葉をなくしましょう。
エデュミティ edumity とかどうでしょう?
父として考える (生活人新書) [新書]
東 浩紀 (著), 宮台 真司 (著)